2010年10月3日日曜日

いわゆるTiwitterについて

とうとうというか、iPhone4と共にSNSの今や
標準APIとなっている Twitterというモノを試している。

SNSはこれまで、IRCから発展したチャット主体のものや、
掲示板を主体とするもの、これらをあわせたものによって
形作られてきたと私は考えてきた。

海の向こうでTwitterが評判になっても、まだその普及の度合いは
わからなかったが、このところ国内での(脱MS的)スマートフォンの
普及によって、このセカイは変わったと思う。

Twitterによるコミュニケーションの伝達速度はチャットよりは
緩やかだが、メールの広範性と確実性を持っているといえる。
また開かれたAPIのお陰をもって、このすばらしい仕組みを無料で
使える人々が本当にたくさんいる。

アメリカ大統領バラク・オバマがTwitterのアカウントを持っているのを、
今日知ったが、彼は500万ものフォロワーを持つことも眼にした。 
おそらく私が眼にした中で最大のフォロワーを持つのだろう。 

Twitterのサービスに接してからまだ一ヶ月。
こんなにわずかな間だがリンクの目が遥かかなたに
広がることは予想していなかったので驚いている。

一昨日は、創業者のBiz Stone氏が、『五体不満足』乙武さん、
飯野賢治さんらとUStream放映にて創業の理念を語っていたの
を閲覧したが、このヒトのきっかけは不便なヒトを救いたい
というココロだということを知った。

Twitterのアイデアの良いところは、

・シンプルである。
・冗長過大ではない。
・オープンである。

これに尽きるだろう。 もちろん個人のアイデンティティという
モノを twitterのセカイで確立するのは容易ではないし、まだ
"ハンドル"という「通り名」を用いるヒトも多い。 

ここで、Twitterを離れて、非・マスコミュニケーション論を
考えてみる。

これらの、口コミ型コミュニケーションに匿名性の功罪はともかく、
そのコミュニケーションを媒介するコミュニティがどれだけ
社会的公正さを実現できているかによって、匿名性を必要としない
社会も十分存在しうると考えてみる。 もちろん擬似的に作られる
コミュニティに関しても、最後には道義的責任と自由な発言の両立が
図られるのが理想であろうが、この実現には難しいことは幾らでも
ある。

ただ、私はこのような理想を掲げてみる。

あるリアル・実社会での個人を、コミュニティの所属者から特定される
状況でなくても、その人格が唯一不二(決して複製されない)というこ
とを、保証されさえすれば、それは十分に道義的責任を負う「人格」と
して存在可能ではないか。

もちろん、この特定不可能だが、唯一不二であるというコミュニケー
ションの基本になる基盤はまだ存在しない。 絶対に信頼できる権威など
私は信じないから(笑) もちろん、この仮定において「いかなる政府の
認証」についても信用は出来ない。 なぜなら政府機関も永久ではないし
不健全で無いという保証が無いからだ。

あるコミュニケーションの手段を通じて相互の信頼を勝ち得たものだけが、
一つの立派な人格として認められる、あたらしいセカイを実現することは
可能だろうか。

0 件のコメント: